忘れられた戦場で

とあるブスの身の上話

権力勾配とブス差別

権力勾配は水の流れと同じで、上から下への一方向へしか作用しないようにできている。
だから、この男尊女卑社会では、男も女も女性蔑視主義に陥りやすい。

「ミソジニストには母親との関係性に問題があった人が多い」という言説をしばしば見かけるけど、あくまでそれは結果論にすぎない。
母親がワンオペ育児の担い手にならざるを得ないことで、母子が共依存関係に陥りやすい側面はあるだろうが、それを以てして女性蔑視の因果を母との関係性云々に帰結してしまうのは短絡的すぎる。
それに、そういう「母原病」みたいな発想はそれ自体が女性差別だ。

シングルファザーの家庭で父親から虐待された人でも、男子校で男からイジメを受けた人でも、その被害者は女性を蔑むようになる。

女は無関係なのになぜ?と思うだろうが、平たくいえば「(上位の)男には勝てなくても、(下位の)女にまでナメられてたまるか」という心理が働くからだ。
家庭は社会の縮図だというが、DV夫→妻→子どもへと作用する虐待の構造を見るとわかりやすい。

ブン殴った人の属性が何であれ、ブン殴られた側は(相対的に)より下層にいる属性をブン殴るようになる。

 弱い者達が夕暮れ さらに弱い者を叩く
TRAIN-TRAIN - THE BLUE HEARTS

という曲があったけど、まさにそれを地で行っている。

男も女も「男に甘く女に厳しい」のは、男の世界の下に女の世界があるからだ。
この男尊女卑社会では、誰しも大なり小なり女性蔑視的になりやすい。
女の場合、それはそのまま自分自身への枷となる。
というか順序が逆で、自身に枷をはめているからこそ、ほかの女性にも同じ枷をはめようとする。
それは「自分がされたのと同じことをしてやる」なんて意地悪から来る発想ではなく、もっと人の内面の深部に作用するものだ。

例えば、人生を愉しむことに罪悪感を抱いているひとは、他者が人生を愉しむことにも否定的な感情を持ちやすいだろう。
それと同じだ。
罪悪感は外へ発露できなかった「怒り」が、形を変えて自己の内面へと向かったものだ。
社会や家庭という外的要因により抑圧された感情が、罪悪感という見えない鎖でつながれた枷となる。
その枷はしばしば(相対的に)弱い立場に置かれた人への攻撃性となって表出する。
だから、女(弱者)に対して厳しい審判を下す女が爆誕してしまう。

そして、その権力構造が最も顕著化しやすいのがマイノリティ属性だ。
弱者ほど弱者への差別意識が強化されやすいのは、上述のように自身への抑圧が権力勾配の力学により下方へと向かうからだ。
その抑圧の力が強ければ強いほど、下位を抑えつける力も強力になる。
だから、男尊女卑社会において、弱者男性は加害者に弱者女性は被害者になりやすい。
これはもちろん同属どうしでも起こり得る。

 人は悲しみが多いほど 人には優しく出来るのだから
贈る言葉 - 海援隊

この歌詞は、端的にいって「嘘」だ。
愛されて育った人のほうが、人に優しくできるし人を尊重できる。
人は自分が扱われたのと同じことを他者に対しても思うようになる。

中学生時代を思い出してみてほしい。
いわゆる「不良」と呼ばれた少年少女が、スクールカースト最下層のブス/ブサメン/ヲタをイジメていた、なんて話は珍しくもなんともないだろう。
「不良」と呼ばれた子には複雑な家庭環境で育った人が多いが、底辺層をイジメていた彼らは悲しみが多いから人に優しくなれていたか?

人は悲しみが多いほど人に厳しくなるのが現実。

だけど、そこで切り捨ててしまうと、私自身がなにかを発信する意義が失われてしまうのであえて言いたい。
弱者属性の人が見えない鎖でつながれた枷から解放された暁には、慈愛に満ちた人生を送った人では到底到達できない「真理」にたどりつけるはずだ、と。

そう思いたいです。

本音は「人生返せよコノヤロー」なんですけどね…。

権力勾配は水の流れと同じで、上から下への一方向へしか作用しないようにできている。
だから、男は女を差別し、女は女を差別する。

そして、女の世界にも階級が存在する。

続編は「女から女への差別」について。
(これを書きたいがために、前置きが長くなってしまった^^;)