忘れられた戦場で

とあるブスの身の上話

記録 2/3

記録 1/3 - 忘れられた戦場で

【↑の続き】

この二十年間、ネット上で以下のようなやりとりを何度も目にしてきた。

♂「女は身体売ってラクして稼げるからいいよな~」
♀「じゃあ、お金もらえれば、ブスとセックスできるの?」

♂の発言は女性差別、♀の反論はブス差別だ。
2000年代初頭にしばしば見かけたもので、♂の発言は令和のいまも相変わらずだが、♀の反論は近年あまり見かけなくなった。
いまは「じゃあ、おっさんとセックスできるの?」みたいな、“反論”のほうを多く見る。
そんなふうに、この二十年のあいだにもいくらか変化はあった。
私の知る限り、ブス差別(ルッキズム)に反対する運動など起こった試しがないから、匿名掲示板も含めて個々の女性たちがその差別性を指摘してきたことが、ひそかに功を奏したのではないかと思っている。
草の根運動とまではいえないかもしれないが、たかが便所の落書き、されど…だ。

それでも、ブスを盾にしたやりとりは後を絶たず、世代が替わるごとに同じことがくり返されていると感じていた。
Aさんの「ブスのまんこ舐めれんのかよ」も上記と同じ系統の蔑視発言だ。
二十年という長きに渡って、複数の人が同じ侮蔑発言をくり返しているなら、それは個人ではなく社会の問題だ。
だけど、皮肉なことに“社会”とか“世間”とかいう漠然とした対象へ訴えかけて耳を傾けてもらえるのは、すでに社会問題の俎上に載せられた被差別属性か有識者の場合に限られる。
差別が日常風景化し当事者が人生の早期につぶれてしまう“真性ブス”にはどちらも叶わぬことだ。
逆説的だけれど、社会に訴えたいなら個人に訴えかけないと、だれもが他人事のままなのがブス差別の特徴だ。

ブス差別の肝は加害者の数の多さと、一人ひとりの罪悪感の希薄さにある。
一人あたりの罪が軽度だから「その程度のこと」として見逃される。
その結果、赤信号みんなで渡れば怖くないの精神で、信号が赤だと指摘する人さえないまま差別が横行している。
だから、だれかが差別発言をしたら都度指摘していかないと、この先の二十年もまた同じことがくり返されてしまうのだ。
ブスへの差別はいつだってそんな状況だ。

特に私がAさんの件で気がかりだったのは、それが最も女性差別に敏感なはずの、フェミニストが多そうなクラスタで起こったということだ。
彼女自身が反性売買の提唱者だから必然的にそうなる。
たかがツイッター上のことではあるが、だからこそ、たかがツイッター上でさえ咎める人もなく件の発言が流れてしまったのが気になっていた。

私は売春の原因が「顔」だ。
数は多くないかもしれないが、自分と同じ女性がいることも確信している。
性売買経験者は虐待や性暴力の被害者が多いことで知られているが、きっかけが「顔」だった女性の存在は認知されていないと感じる。
「ブスのまんこ舐めれんのか」の“ブス”を被虐待者や性被害者に置換したとして、北欧モデル支持者が一人残らずスルーしている状況は想像つかなかった。

だれにでも過ちや失言はあるし、私もだれかを傷つけたり差別したりすることはある。
特にブス差別は、個人の責を問えるほど差別が差別であるとの社会的コンセンサスがない。
だから、差別してしまうところまでは、しかたのない面がある。
問題はそのあとだ。
件の発言は表立って差別を指摘する人さえいないまま、流されてしまっていいほどの軽い発言なのだろうか?
売春しただけでも傷ついているのに、そのきっかけが私と同じく「顔」だった女性は何を想う。

そう思い直して、やっぱり抗議しようと決めた。

「だれかのために」なんてことは欠片も思わないが、しいていうなら昔の自分のためにだ。

***

最初はAさんの発言を引用するつもりはなかった。
特定個人にバシルーラを唱えて、どっか遠くへ吹っ飛ばしたかったわけじゃない。
だから、不特定多数発の「ブスとセックスできるの?」を用いるつもりでいた。

そんな最中に、Aさんが「自分が差別主義者だと気づくと吐きそうになる※大意」という旨のツイートをした。
私はピンと来て、例の「ブスのまんこ~」発言のことではないかと思った。
誰かからDM等で指摘されて差別だと気づいてくれたのかもしれない。
それまでの彼女のツイートから摂食障害で通院中なのは知っていたので、「吐きそう※大意」というのが比喩でないことはわかっていた。
罪悪感で押しつぶされそうになっている人の傷口に、わざわざ塩を塗りこむような真似はしたくない。

私は過去にわざと人に暴言を吐いたり、ブスな女性に向かって「ブス!」と罵倒したり、特定の男性をストーキングしたり等のイヤがらせをした経験があり、あとからのしかかってきた罪悪感に打ち克つことができず、ずっと罪の意識を引きずりながら生きてきた。
罪悪感を煽られるのはしんどいものだ。
とりわけ、自分が人を傷つけたとわかっているときほど。

彼女の場合はわざとでなく差別だと知らなかっただけだ。
そうして、“抗議”するつもりが、だんだん“お願い”する方向へとシフトしていった。
「こういう言い方をしたら、Aさんが自分が言われているような気になって傷つくかも」
そんなふうにアレコレ言葉を取捨選択しているうちに、言いたいことがぼやけていくのを感じた。

そして、ふいに“気づき”の瞬間が訪れた。

“ブス”を差別した人を傷つけないように、差別された“ブス”の私が慎重に言葉を選別しているという状況。

……おかしくないか?

もしかしたら、そんな私の思考を「優しい」と思った奇特な方(失礼)もいるかもしれない。
いいや、これはけっして優しさなんかではない。
まぎれもなく、畏怖だ。
私は女性(特に美人)に、媚びとおそれを抱いていた。
そして、この畏怖の念はブスなら当たり前の感覚だ。

それを「優しさ」だと誤認した人がいるとしたら、その人もまた私同様に見えていないものがある。
“ブス”の存在だ。
すなわち、被差別者の存在が見えていないのだ。

私はAさんの心情を察するあまり、自分や自分と同じ顔が醜い女性たちのことを、ないがしろにしていることに気づいていなかった。

***

美人にひどく媚びていることを自覚してからというもの、そんな自分に怒ったり沈んだりを数ヵ月間くり返した。
無気力になってベッドから起き上がれなくなり、若い頃のような昼夜逆転生活になった。
料理もほとんどできなくなり、高齢の母には「自分で買って食べて」と突き放した。
他方では怒り狂って自室の壁を蹴飛ばしたり、枕に顔を埋めて雄叫びをあげたりした。
そんな怒りと沈下が交互に訪れて、だんだん高低差がなくなってきたとはいえ、それが今もなお続いている。
だから、本質的には自分自身への怒りと失望であって、Aさんはそれに気づかせてくれたきっかけにすぎない。

「なんで私はこんなに“女”に媚びているんだろう」

自分のなかにある最後のミソジニーの呪いに気づいたような気がした。

人ぞれぞれ痛みの原体験がちがうから、属性がかぶっていたとしても、どこに最も強い帰属意識を持つかは人によって異なる。
売春したことは私の属性のひとつだが、売春のそもそもの原因が私の場合は「顔」だ。
端から「顔」の差別は声を上げてもムダだというあきらめがあり、その代替えとして“性売買”の問題に間借りしていたに過ぎないのではないか?
そんなことを思うと、境界線を引かれたこちら側から懸命に手を伸ばすことで、どうにか“性売買”のふちにしがみついているような疎外感を覚えるようになった。
少しずつだが、性売買から顔のほうへと意識の比重が傾いていった。
ブログは「顔」を主題に据えることにした。

そうして、Aさんの発言を引用してパキッと抗議しようと決めた。
けっして彼女のことが嫌いだからではない。
「Aさんがブスを蔑視する発言をした」という事実のみに着眼することにしたのだ。
その裏で人知れず苦しんでいる女性がいるかもしれないことを思えば、そうあって然るべきだ。

だれにも忖度せず、Aさんの事情にも配慮せず、ただ物言わぬ“ブス”のために。【続く】

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