忘れられた戦場で

とあるブスの身の上話

フェミニストによるブス差別 1

※詳細Ver.(記録1,2,3)をお読みいただいた方は【その後】まで飛ばしてください。

【あらまし】

昨年、某インフルエンサーの元風俗女性が、性売買に肯定的な男へ対抗する言説として「(だったら男はブスに買われて)ブスのまんこ舐めれんのかよ」というツイートをした。
“ブスのまんこ”を舐められない汚物とした上での、男性による買春行為を糾弾した発言であり、売春の主因が「ブス」だった私にとってはかなりパンチの効いた蔑視発言となっている。

この発言者を仮にAさんとしておく。
Aさんは私と同じく北欧モデル寄りの理念を持つ方だ。
彼女のこのツイートはだれに咎められるでもなくそのまま流れていった。

数ヵ月後、私は上記発言に抗議するツイート(→*)を投下した。
名指しはしなかったが、ご本人や元のツイートを見た方ならわかる内容だ。
Aさんの発言をメインに引用した主な理由は以下。

  • 見過ごせないレベルの蔑視発言。
  • 似たような発言を何度も見てきて、これ以上くり返されたくなかった。
  • 特定の当時者が売春にいたった素因を反性売買の文脈で貶めたこと。

その前後、Aさんのツイートの更新が途絶えた。
私の抗議が何らかの影響を及ぼしたと思われる状況だった。

ほどなくして、彼女のツイッターのアカウントが表&鍵ともに削除された。
それを受けて、私は抗議ツイートに書いた「ブスのまんこ~」の発言者がAさんであることを明かした。
名前を出した理由は以下。

  • Aさんがアカウントを削除したので配慮する必要がなくなった。
  • 件の発言を知る人がどんな反応を示すか知りたかった。
  • 一連の流れ(ブス差別があったこと)を明るみにしたかった。

それから、全部ぶっちゃけることでリセットしたい気持ちもあった。
この件の禍根を残さないためにも。

※詳細はこちら→(記録1,2,3

***

私が書いた抗議ツリーは、あくまでも「差別への抗議」だ。
主義主張の対立ではないことを念頭に置いてほしい。

物事は多面体だ。
私から見た面、Aさんから見た面、第三者から見た面はそれぞれちがう。
だからこそ、第三者は自分から見えている表の一面だけで判断するのではなく、見えない裏面にも想像力を働かせる必要がある。

【その後】

抗議ツイート(→*)を投稿したあと、ある女性からトンポリされた。
正確にいうと、その女性がトンポリめいた“愚痴”をこぼしていた。
最初は若干の引っかかりを覚えつつも気のせいだと思っていたのだが、のちにわざわざそのツイートが削除されたことを鑑みるに、やっぱり私への“愚痴”だったのではないかと思う。
確証がないので内容までは書かないが、「(私の行為に)呆れている」といったニュアンスのツイートだ。

その時点ではまだAさんの名前を出していなかったので、件の蔑視発言がAさん発だとわかったうえでのトンポリとなる。
彼女が諸々の大変な事情を抱えていることから、「抗議するにしてもやり方が~」と言いたかったのだろう。
蔑視発言をそのまま引用したことが引っかかったのだろうか?
それとも、事を荒立てようとせずDM等でひっそりやれということだろうか?
だけど、普通に考えれば、差別された側が差別した側の事情にそこまでおもねる必要はない。
それに私はオオゴトにしたかったのだ。
差別の可視化を試みる際に、誰にも知られぬようひそやかに抗議する人があるだろうか…。

「蔑視発言をした」という事実のみに焦点を絞り抗議をする。
それがそんなにおかしな話だろうか?
「ブスのまんこ~」発言を華麗にスルーして、その発言に抗議した私にトンポリめいた不満を吐露したこの方が、一度でも“ブス”の痛みに心を寄せたことはあっただろうか。

***

その後、Aさんがツイッターのアカウントを削除したことを受けて、私は蔑視発言の発言者がAさんであることを明かした。
そのツイートを見た別の女性から直接メールをいただいた。

「Aさんも今後は言葉を選ぶ」とした上で、暗に和解を勧めるような内容だった。
丁寧で厭味のない文面だったが、なぜだかすでに「終わったこと」扱いをしていたこと、差別に抗議した私のほうに“和解”を提言してきたことには心を挫かれた。
もともとは黙殺された蔑視発言を「なかったこと」にしたくないと思ったのが抗議ツイートを書こうと思った発端だ。
それをまたもや「なかったこと」を前提に話を展開されてしまい、振り出しに戻ったような徒労感を覚えた。

それから、本来“和解”とは対等な関係性でしか成立し得ないものだ。
どんな場合であっても、被差別者/被害者の側に“和解”を提言するのはやってはいけないことだと私は思う。
それは不当な忍耐と譲歩の推奨にほかならないからだ。
そこに中立はありえない。

とかく、ブスは他者から説教やアドバイスを喰らいがちだ。
「助言」は時にそれ自体が脅威となり得るものだ。
声を上げた先のそんな痛苦が容易に想像できるからこそ、声を上げられない人たちがいることはわかってほしいと思う。

また、この方からはこうも言われた。
「Aさんとノネ子さんはどちらもルッキズムの被害者です※大意」と。
私はこのブログで「女性はみなルッキズムの被害者だ」と書いてきた。
その上で“女性によるブス差別”を有耶無耶にしたくないとも思っている。

ブスもそれ以外の女性もみな「ルッキズムの被害者」として一括りにされることで、ブス特有の被害はなかったことにされてきた。
おかげでブスは男だけでなく女からも差別されるとか、女の子からもイジメられるとか、そういうブスの現実がずっと覆い隠されたままだ。

ブスと美人を(悪い意味で)対等に扱っているのなんて、フェミニストぐらいのもんだろう。

女性がみなルッキズムの被害者であることは事実だけど、それを“女性によるブス差別”をなかったことにするための免罪符にしてはいけないし、“ブス”に忍従を強いるための呪いの言葉として使うべきでもない。
(※こちらは以前より書きたかったテーマなので、そのうち別立てで取り上げようと思う。)

***

以上のように、特定の条件下では善良なフェミニストの方でさえ、差別構造の不文律が崩壊してしまう。

彼女たちが新参者の私でなく、SNS上とはいえ人望を集め人脈を築いてきたインフルエンサーのAさんに肩入れするのは至極当然の心理といえる。

だけど、本来、差別した側の事情を持ち出して差別された側にトンポリや助言をするなどあってはならないことだ。
それ自体が差別的な行為だろう。
三者からは見えなくとも、もしかしたらAさんの一言が“最後の後押し”になった人だっているかもしれない。
つまり、そういうことを言い出したらキリがないのだ。

重要なのは「事実」だ。
私はAさんが顔が醜い女性を侮辱したという「事実」のみに焦点を絞って抗議をしただけだ。
しかし、彼女のバックグラウンドや境遇を知る人の一部は、それらの情報がバイアスとなっていることに気づかず物事を一面的に捉えてしまう。
すなわち、彼女のほうの事情に重きを置いてしまうのだ。
そうして、客観的に見ればひとつしかない、シンプルなはずの「事実」を曇らせてしまう。
人脈や人望に左右されるような正義なら、それはもはや正義とは呼べないのではないか。

真実の目を曇らせてしまうひとは、要するにそれだけ被差別者の被害を甘く見ているのだ。
顔が醜い女性の被害を軽視してしまうのはバイアスがかかっているから。
バイアスがかかってしまうのは顔が醜い女性の被害を軽視しているから。
被害の軽視とは存在の軽視だ。
存在の軽視とは差別意識の根幹を為すものだ。

ちょうど私自身がAさんの心情を察するあまり、自分や自分と同じ「顔が醜い女性」の存在を“忘れる”ほど軽んじていたように(→*)。

「女性によるブス差別はわかりにくくて悪意がない」
以前そんなことを書いたが、その意味が多少なりともおわかりいただけるだろうか(→*)。

私はAさんの蔑視発言を通して、そんな“女性によるブス差別”を可視化させたかったのだと思う。【続く】

***

上記記事は、メールをくださった方の許可を得ていないので書こうか迷っていましたが、私がブログやツイッターを始めたのは誰かとなかよしになりたいからではなく、少しでもブス差別を解消したいとの思いからなので、やっぱり書くことにしました。

もしも、今後メールをくださる方がいましたら、ブログで書くかもしれないことをご承知おきください。
ただし、個人情報を晒したり内容を丸ごとコピペするようなことはないので、その点はご安心ください。

*次の記事*

busu.hatenablog.jp

*【あらまし】の詳細Ver.*

busu.hatenablog.jp

*まとめ* 

busu.hatenablog.jp