忘れられた戦場で

とあるブスの身の上話

差別だと思われていない差別

世の中には差別として認識されていない差別が存在する。
それを差別だと指摘し理解を求めるのは至難の業だ。

 

差別なのにだれも差別だと思っていない「差別」。
問題なのにだれも問題視していない「問題」。

 

顔が醜い女への差別はいつだって差別の存在そのものが隠されたままだ。

 

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障害者差別、人種差別、LGBTQ差別…。

 

それらに異を唱え反差別を掲げる「善良な」人たちでも、顔が醜い女には骨の髄までしみついた苛烈な差別意識を発露する。
ルッキズムを標榜しながらルッキズム丸出しの発言をする人。
差別を「なかったことにさせない」と息巻きながら、己のブス蔑視発言は「なかったこと」にしてあっさり切り捨てる人。
私はそんな人たちを何人も見てきた。

 

上に書いた差別で解消されたものはひとつもない。
すべて現在進行形の問題だ。
それでも、そういう差別が「ある」ことは周知の事実だし、それらは社会問題の俎上に載せられ「真面目な」論議の的となっている。 

 

だけど、イジメ問題が語られるとき、学校でイジメられる属性のド定番であるはずの「ブス」に焦点が当たったことはないし、ルッキズム論議でさえその大枠のなかでないまぜにされ、「ブス」であるがゆえに被る被害は希釈されその属性ごと「なかったこと」にされてしまう。
顔が醜い女への差別は、差別の存在を可視化すること自体が困難だ。
ほかの被差別属性への発言であれば炎上必至案件でも「ブスになら言ってもかまわない」と信じている人は多い。
ブスは「そういう扱い」をされて然るべき存在だと信じて疑わない人たちに、どう言葉を尽くせばそれが差別であるとわかってもらえるのだろうか。

 

例えば、ジャイ子が神妙な面持ちで「つらい」とつぶやいているひとコマを想像してみてほしい。
深刻に見えるだろうか?絶望しているように見えるだろうか?
きっと大半の人にとってその場面はギャグにしか映らないはずだ。

顔の美醜はそれ自体が人の心象を左右する。
ジャイ子の発する「つらい」「苦しい」「悲しい」は誰の心にも響かない。
それが醜さの真髄だ。

 

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ここでひとつ、私の経験からわかりやすい実例を書く。

 

私は、私の顔が醜いことを「おもしろいこと」だと認識している人たちにリアルで出会ってきた。
そういう人はテレビのお笑い番組やマンガに出てくる「おもしろブス」と私を完全に同一視しているのだ。
彼らは一様に悪気がなく、顔が醜いことを本気でおもしろいものだと信じていた。
私の顔が醜いことは私も含めて万人にとっての笑える「鉄板ネタ」だと思いこんでおり、だからこそ、当人である私に面と向かって「●ちゃんが『(私のことを)あのひと、気持ち悪い』って言ってたよ笑」と言えてしまうのだ。

 

そんな人間相手に「傷つく」なんて言えると思うか?

 

そういう人からすれば、「傷つく」と言っている私の顔が、またしてもマヌケで滑稽な「おもしろいもの」に変換されてしまうに違いないのだ。
それがわかっているからこそ、本当のことなど言えるはずもなかった。

 

彼らは、私が20年もひきこもっていることを知ったら、その姿を想像して瞬時に「おもしろい」ものに脳内変換してしまうのだろう。
箸がころんでもおかしい…ならぬ、ブスが何やっても可笑しいと認識してしまう人たちにとって、私の存在はギャグにしかならないのだ。

 

上記のように、顔が醜い者への差別を可視化しようとするなら、その過程で避けられないのが顔が与える「印象」という先入観を、いかにして取り除くかという難題だ。
醜い=面白いという認知のゆがみを引き起こしている人たちに向かって、面白いと認識されるこの醜い顔のままでどうやってその痛みを伝えることができようか。
私には見当もつかない。

***

 

だから、最初に「顔が醜い」という情報を明かすことはハンデとなる。
それだけで人は私を対等な人間だと見なせなくなるからだ。

 

例えば、これを読んでくださっている方は、すでに私に対してバイアスが生じている状態だ。
私の顔が醜いという情報をあなたが知っているからだ。
私の書いた文章を読むとき、あなたは必ず「顔が醜い」というフィルター越しにその解釈をするようになる。
そして、私の一挙一動すべての理由を「顔が醜い」ことに求めるようになるのだ。

 

すでに私に向かって何かしら言いたくなっている方もいるかもしれない。

 

「やっぱりブスは被害妄想が強い」
「顔のせいにするような卑屈な性格が問題」

 

そんなことを思うだろうか?

 

だけど、もしも私の顔が醜いという情報を知らなければ、あなたはそんなことも思わなかったはずだ。

 

このように「顔が醜い」ことを明かせば、その時点で読んでくださる方はフラットな視点を保てなくなってしまうのだ。
だからといって、醜いことを隠したままなら、当事者が被ってきた不利益や扱いの不当性は永久に闇の中だ。

 

このジレンマはいつも「最初の一歩」を踏み出すことをためらわせる。
最初の一歩が最大の障壁となって立ちはだかるのだ。

 

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それでも、いつかどこかの誰かの目に留まって、少しでもその人の心を動かせることができればと思い、このブログを始めることにしました。

たまにこんな感じのメタ発言を織り交ぜることで、読んでくださる方の胸のうちに問いかけ、差別として認識されていない「顔が醜い女への差別」を少しずつでも明るみにしていけたらと思います。

 

よろしくお願いします。