忘れられた戦場で

とあるブスの身の上話

ブスとおばさん

「ブスをバカにしている女の子は、おばさんになったらどうするんだろ?」

私がまだアラサーだったころ、そんなことを思ったことがある。

女性の属性のうち、無条件で徹底してバカにされているものがふたつある。
それが「ブス」と「おばさん」だ。

顔が醜いことで「ブス」が被る差別と、加齢により醜くなることで「おばさん」が被る差別はどちらも同根のものだ。
両者には男社会が押しつけた「女性は美しくあるべき」という規範から外れた女、という共通点がある。

ブスに生まれなかった女性は、生涯「生まれつきのブス」には属さないことを保証されている。
だけど、「おばさん」はちがう。
どんな美少女でも生きているかぎり必ず歳を取る。
若さと見た目の美しさは直結している。
少なくとも、現代に生きる人間の美的感覚ではそうなっている。

そこで最初の一行めに戻る。

「ブスをバカにしている女の子は、おばさんになったらどうするんだろ?」

答えは「加齢で醜くなった己を呪いつつ、相変わらずブスをバカにしている」だ。

容姿の醜さを蔑む人は、自分が醜くなったときに己を蔑むようになる。
優越感が強ければ強いほど、おばさんになった時の劣等感も一層だ。
これは自然の摂理だ。
優越感とは劣等感の裏返しにすぎない。
優位性を失ったときに優越感というメッキが剥がれ落ち、あとには劣等感だけが残される。

そうして「自分の番」が回ってきても、長年しみついた価値観を覆すことはなかなかに難しいだろう。
ともすれば同年代のなかで優位に立とうとすることで、新たなプライドを保つようになるのかもしれない。
「おばさんはブスとはちがう」「ブスと一緒にしないで」と思いながら…。

だけど、そんな「おばさん」になった女性を責めることができるだろうか?

男社会が強いたルッキズムに、女性は絶えず晒されながら生きている。
容姿をジャッジされない女性はいない。
ブスならブス、美人なら美人、ブスでも美人でもなければ「美人じゃない」という判定を下されながら育つ。

男性たちが築き上げたマスメディアの世界では、何十年と女性の外見至上主義を煽り続けている。
美しいことが女の基準値に設定されているから、ブスでなくとも「美人じゃない」ことにコンプレックスを持たされるし、美人は美人であり続けねばならないプレッシャーを負う。

ブスがブスと罵られることで劣等感を抱くのなら、美人もまた美人と褒められることで優越感を抱く。
優越感を抱いている人はその対極にいる人を見下している。
そして、前述のようにおばさんになったときに、その見下しが自身に跳ね返るようにできている。

「女は美しくあるべき」という規範は、裏を返せば「女は醜くあってはいけない」ということでもある。
ブスも美人も美人じゃない女性も、すべての女性が女性の醜さを蔑むよう社会が設計されている(男性はいわずもがな)。

どこぞの美容外科クリニックが「美しくなりたいのは女の本能だ」としているが、これは本能なんかではない。

男社会が女にかけた呪いだ。

***

男性はよく「おばさんが若くて綺麗な女に嫉妬してるww」と揶揄的にいうが、それが大嘘だってことを私は身を持って知っている。

「おばさん」たちが綺麗な女の子を囲み、その美貌に感嘆の声を挙げるという光景は、女性なら記憶の一片に残っていることだろう。
嫉妬どころか現人神にでも遭遇したかのような扱いだが、これはこれで相手の人間性を無視した幼い行為だと私は思う。

いっぽうでブスは「おばさん」からも冷たい仕打ちを受ける。
もちろん、男性からの攻撃ほど多くはないし直接的な言葉を使う人もいない。
それでも、いることはいるのだ。
案外、この現実は当事者以外には見えていないようだ。

10代のころを思い返してみてほしい。
きっと、あなたの学校にもイジメられたり、バカにされたりしていたブスな女の子がいただろう。
その子をバカにしていたのは男だけじゃなかったはずだ。
男女ともにブスを蔑むよう仕組まれた社会で、多くの人がその価値観を維持したまま大人になるのだから、「おばさん」がブスを卑賤視するのも当然の帰結といえる。

ついでにいうと、顔が醜い子どもは親からも愛されないことが多い。
これは少し考えてみればすぐにわかることだ。
人の醜さを蔑んでいた人は、自分の子どもが醜く生まれたとき、やっぱりその醜さを蔑むようになるのだ。
「我が子ならどんな顔でも愛せる」と思ったら大間違いだということ。

人間は自分が扱われたのと同様のことを他者に対して思うようになる。
女性が同じ女性を美醜で判定してしまうことも含めて、女性はみなルッキズムの被害者だ。

以上、私の持論でした。

***

この文章は一年ほど前に書いた下書きに手を加えたもので、実はこの一年のあいだに私はかなり考え方が変わった。
だから、上記内容はいまの私の主張とは異なる部分がある。
あえてそのまま投稿したのは、今後書く予定の内容との差異を示したかったから。

長年、私の矛先はずっと「男社会」に向けられていた。
女性蔑視の根源は男社会にあるから個人の罪を問うべきじゃないし、ましてや女性の罪を問うべきでもないと思ってきた。
基本は今も変わらない。

だけど、今は「女から女への差別」を、きちんと可視化すべきだと思うようになった。
女が女を差別するとき、それはよくいわれる「自己に内在化されたミソジニー」ってやつのせいだ。
それがわかっていたからこそ、私は女性の罪を問うべきではないと思ってきたのだが、今は考えを改めたことを宣言した上でこの記事を終わる。