忘れられた戦場で

とあるブスの身の上話

後編・ブスと醜形恐怖症

前編・ブスと醜形恐怖症 - 忘れられた戦場で

【↑の続き】

醜形恐怖症”の定義は「外見に大きな欠点があると思いこんでいる人」だ。

だけど、19のときの私は、てっきり「本当に顔(外見)が醜い人」も包含されるものと勘違いしていた。
というか、「本物」が対象外だとは露ほども思っていなかった。

思いこみでも本当でも、己の外見を恥じ入り見られることに恐怖し、それが日常生活に支障を来していることに変わりはないのだから。

神経症の書籍のなかの“醜形恐怖症”を読み終えたとき、私は愕然としてしまった。
本当に意味がわからなかった。

「なぜ、“本当に”醜い人間の事例が載っていないんだ?
醜形恐怖という字面からみれば、本当に醜い者こそ“真打ち”のはずだろう?」

そのとき感じた、存在しない人扱いされているような、地中深く埋まっているような疎外感は筆舌に尽くしがたいものがある。
顔が醜い者はこうして何十年何百年と社会から排斥され続けているのだ。

醜形恐怖症”という精神疾患に「本当に醜い者」が包含されないのは、とどのつまり、それが精神疾患ではないとされているからだ。

思いこみの人は本当に醜いわけじゃないから、いくら整形したところで心の病を治さないかぎり解決しない。
だけど、思いこみではなく「本当に醜い」なら、外科的な美容整形手術を施せばそれで解決すると思われているのだ。
だから、「心の病」として扱われないのだと悟った。

心の病じゃないなら顔の病か?

世間が思うブスの当たり前と、私が思う当たり前は、なんでいつもこんなに乖離しているのだろう…。

私はこれまでの人生で整形しようと思ったことは一度もない。
何かポリシーがあって強固にそう決意しているわけではなく、整形したら後にはもう自死しか残されていない気がしたからだ。

もしも整形美人になって周りから「かわいい」と称賛されるようになったとしても、「あー、せいせいした!これでブスともおさらばw」なんて喜べるワケがなかった。
周りからの評価が美醜のどっちに振れようが1ミリも関係ない。
私は何もしていないのに、ただそこにいただけなのに、内面は何ひとつ変わっていないのに、なぜあんなにも悪口雑言に苦しまなければならなかったのか。
その理由を追究することなく蓋をしてしまえば、後戻りできないレベルの人間不信に陥るだけだと思った。

顔が醜い者の苦悩の本質は、顔が醜いことそのものにあるわけじゃない。
顔の醜さゆえに日常的に「言葉の暴力」にさらされ、内なる能動性が消失してしまったこと、それこそが「苦悩の本質」だ。

毎日、殴られている人間にまともな日常生活が送れると思うか?
きのうの傷も癒えないうちから新たな傷がどんどん増えていくのに、未来を見据える余裕などあるはずもなく、できることといえば今を生き抜くことだけだった。
そんな暮らしを余儀なくされ、私の能動性は完全になくなってしまったのだ。

顔なんかいくら作り変えたところで、中身が変わらなければ意味がない。
少なくとも、私の価値観ではそうだ。
美容整形をすれば、頭のなかに堆積した地層のような「痛みの記憶」が一掃されるのか?
失った能動性が戻ってくるのか?
整形はリセットボタンかなんかか?

虐待や性暴力の被害に遭われた方が、その後の人生においてPTSDに苦しめられることは周知の事実だ。

それなのに、なぜ「言葉の暴力」で殴られてきたブスには「心の病」がないことにされているんだろう。
なぜ、整形して顔を取り替えたら万事解決すると思われているんだろう。
なぜ、心を病んでいることに変わりはないのに、真に醜い者だけが“醜形恐怖症”に含まれないのだろう。

その理由は明々白々だ。
多くの人が顔が醜い女を卑賤視しているから、上記のことが社会問題として浮上しにくいのだ。
学校でブスに加害していた広範にわたる不特定多数の人物が、やがて大人になって社会に出てマスコミや政治家/官僚/医師/弁護士など社会的に影響力の強い立場から実権を行使するから、半永久的にブスの当事者性が日の目を見ることはない。

被差別属性の被差別属性たる所以のひとつに、声を上げても誰の耳にも届かない、というのがある。
別に人々が意地悪して耳を塞いでいるわけじゃない。
単に右の耳から左の耳に通り抜けてしまうだけだ。
ブスを当たり前のように軽んじているから、悪気なく無意識のうちにそうしてしまう。

だから、ブスが被る「言葉の暴力」が被害として認定されることはないし、広範の不特定多数による罵倒が加害行為として認定されることもない。
被害として扱わなければ「心の病」も発生し得ないことになるから、“醜形恐怖症“に「本物」が含まれることはなくブスの実態は誰も知らないままとなる。

暴力を暴力として扱わない社会は、被害者にとって地獄でしかない。

ちょっと脱線するけど、似たような話がある。
セックスワーク論」だ。
買春行為を無罪放免にすれば、売春婦の地位と生活が向上すると提唱している理論だ。
だけど、性を買われること自体が被害だし買春者は加害者だ。
被害を被害として扱わず加害を加害として扱わなければ、最も割を食うのは売春当事者だ。
被害を被害として扱われず差別を差別として扱われない、そんなブスの現状を見れば火を見るよりも明らかだろうに。
といっても、ブスの現状はブスしか知り得ないから、知りようもないか…。

話を元に戻すと、真に顔が醜い者の苦悩も、まぎれもなく「心の病」だ。
毎日毎日、複数の人物から面と向かって罵倒され嘲笑され、病まずにいられるわけがない。
もしも、その状況下で何も痛みを感じない人間がいるとしたら、そっちのほうが異常だろう。
正常で健全な心を持った人間だからこそ心を病むんだ。
美容整形で大団円を迎えることなどできるわけがない。

そして、真に醜い者を“醜形恐怖症”に包含するよりはるかに重要なのは、「言葉の暴力」をきちんと加害行為として社会が認識することだ。

心の病じゃないなら顔の病か?
いいや、これは社会病理だ。