忘れられた戦場で

とあるブスの身の上話

待ち伏せされた話

【小四】

引っ越してから、しばらく経ったころ。

学校から帰る途中、あと少しで我が家へ到着というときのこと。
道沿いに斜めに並んだ平屋団地の住宅から、ひとりの女子中学生が慌てた様子で顔を出した。
「来た来た!」と奥にいるもうひとりへ合図を送ると、女子中学生ふたりが全開にしたガラス戸から身を乗り出すようにして私に向かって怒声を上げた。

女2「うわ、気持ちわりー!気持ちわりー!」
女1「ねっ?」(女2に同意を求めるように)
女1「おい、ブス!ブス!」

家やアスファルトの道路に反射して響き渡るような大きな声だった。
合図を送った女1は茶髪パーマ、あとから出てきた女2は金髪セミロングという、当時の田舎ではわかりやすいほどのヤンキー女子たちだった。
どうやら、バケモノ女子小学生の帰りを待ち詫びていたらしい。

道のすぐ先には我が家があり、父がよく庭で植木いじりをしていたから、もしも外に父がいたら聞こえているかもしれなかった。

私はランドセルの肩ひもを両手でギュッとつかむと、うつむいたまま足早に通り過ぎようとした。
その間にも、彼女たちは私の姿をずーっと目で追いながら「おい、ブス!」と罵声を浴びせ続けていた。

お願い、やめて。パパに聞こえる。
心のなかで何度もそう祈った。

私の姿が見えなくなったと思われた途端に怒声はピタリと止んだ。
もはや、私になどひとかけらの関心も抱いていないように思えた。
顔の醜さを罵倒する人の動機は、いつも気まぐれで羽毛みたいな軽さしかない。
気軽に気楽に罪の意識もなく「見世物」として消費するだけしたら、次の瞬間には自身の言行もバケモノの存在とともに忘れてしまう。

 

家に着くと、玄関先に父がいた。
父はニコニコしながら「おかえり」と言った。
「おかえり」や「ただいま」を言う時の父は、いつも柔和な笑顔だった。

だけど、私に「ただいま」を言えるHPは残っていなかった。
さっきの“アレ”が父に聞こえていたかどうかはわからないが、聞こえた上で私を気遣って笑顔を向けているのだとしたら居たたまれなかった。
私はうつむいたまま無言で家に入った。

自分の部屋でひとしきり泣いたあと、沈んだ気持ちで翌日以降のことを考えるともなしに考えていた。
明日からこれが毎日続いたらどうしようと不安にさいなまれた。

自宅は袋小路の中ほどにあり、例の平屋団地を避けて通ることは不可能だった。
迂回して帰路に着くには、自宅の反対側にあるどぶ川を泳ぐか、もう一本隣りの道から入ってどこかの民家の庭を横断するしかなかった。
どちらも現実的ではない。

胃がキリキリするような思いで翌日を迎えたが、結果として女子中学生たちの待ち伏せは一度きりで終わった。

 

我が田舎の小中学生たちは、体育の授業がある日に学校指定のジャージを着用して登校するのがデフォだった。
だから、家でもジャージを着ている子が多かった。

彼女たちもジャージを着ていたので、すぐにどこの中学校の生徒かわかった。
また、中学校のジャージは学年ごとに色が分かれているため、何年生なのかもわかった。
私は彼女たちが兄と同じ中学校の同級生だと認識していた。

ただし、中三の二学期から転入した兄は新しい学校のジャージを購入しなかったので、何をもってして私が彼女たちを兄の同級生だと判断したのかは今となってはわからない。
自宅で兄の新しい友人を見かけたことがあったので、そのときに見たジャージの色がそうだったのかもしれない。

ともかく、何かがきっかけで「超絶ブスな妹がいる」ことが同級生に知れ渡り、学校でからかわれたのだろう。
兄は自分の友人から私を隠すようになった。
「友だち来てるから、おまえ出てくるなよ」
兄の友人が家に遊びに来ると、そう言われるようになった。

小四のときに今の地方へ引っ越してきてから、兄が亡くなるまでの十三年間、私は兄の友人に一度も会ったことがなかった。

初めて兄の友人と対面したのは、兄の通夜の席だった。

***

「ヤンキー(不良)」「ヲタク」「普通」や外見的特徴などの“属性”について、事実は事実としてありのままを書き記す方向で行こうと思います。
特定の属性への偏見が発生していないか、ご自身のなかで留意しながらお読みいただけると幸いです。