忘れられた戦場で

とあるブスの身の上話

フェミニストによるブス差別 3

フェミニストによるブス差別 2 - 忘れられた戦場で

【↑の続き】

前回はAさんのことに絞って書いたが、実のところ、ご当人の振る舞いよりもはるかに心をへし折られたのが第三者の反応だ。

良くも悪くも、“場の空気”は人が作り出すものだ。
Aさんが侮蔑発言を「なかったこと」にしてツイッターに戻ることができたのは、周りの人がそれを許容する空気を作り出しているからだ。
彼女の“帰還”を諸手を挙げて歓迎することで、自覚的にしろそうでないにしろ差別に加担している。
差別を「その程度のこと/どうでもいいこと」として見過ごす一人ひとりの振る舞いが、差別を「その程度のこと/どうでもいいこと」として見過ごしてもかまわないものにしている。
その空気感が連綿と受け継がれていくことで差別は固定化される。
これは“ブス”にかぎった話ではなく、あらゆる差別問題に共通していえることだと思う。

なかでも、薄ら寒い気持ちにさせられたのが、某反性売買団体(反AV団体)の代表女性の振る舞いだ。
先にお断りしておくと、仁藤さんのことではない。
別段名前を伏せる必要性は感じないのだけれど、その方はツイッター上でアンフェやセックスワーク論者からアホほど叩かれており、そっちに加勢したくもないので一応伏せておこうと思う。

代表女性はAさんが公開サブアカウントに復帰するや否や、嬉々としていいね!やリツイをしている。
擬音で表現するなら、まさにシュバババといった感じ。
「いいね!罪」なんて揶揄されそうだが、自分が不当な扱いを受けて抗議をしているところに、その相手を歓待する人がいたら誰だっていい気はしないだろう。
それに、私はこの方が北欧モデルを標榜する反性売買団体の代表だという点がどうしても引っかかってしまう。

いま一度書くけれど、私の売春の原因は「顔」だ。
それは「そんな経験さえなければ売春なんかしなかった」という痛みの原体験であり、私にとって“ブス”を貶されることは“売春婦”を貶されることより、よっぽどアウトだ。

Aさんは男の買春行為を批判する文脈で“ブス”をそしる発言をした。
それをブスで売春経験者の私が名指しで抗議しても、一貫して徹底スルーを決めこんだ人だ。
誤謬のないようくり返すと、批判のポイントは彼女がブスを侮蔑したことや差別意識を持っていることではなく、当事者からの抗議をシカトし続けている点だ。
そういう人を無条件で受け入れることは、ブスはもちろん、ブスの売春経験者を無条件で爪弾きにしているも同然ではないだろうか。
しかも、いち個人ならまだしも、反性売買団体の代表を務める方が、特定の性売買経験者をないがしろにするような不公正に加担していいものだろうか。
ショックを受けたとかガッカリしたとかいうよりは、本当にそんなんでいいのか…?と訝る感覚が強い。

ここで誤解なきよう申し上げておくと、私はいろんな趣旨の反性売買団体があっていいと思っている。
研究が主体の団体や当事者への支援を行う団体がそれぞれあるように、特定の属性の当事者に特化した団体があってもいいと思うし、それが個人の研究や関心の対象ならばなおさらだ。
反性売買団体だからといって、すべての性売買経験者の属性や動機を網羅する必要はない。
だから、特定の売春の動機について、わからなかったり興味がなかったりするのもしかたのないことだ。

その上で“北欧モデル”を理念に置く団体が絶対にやってはいけないことがあるとも思っていて、それは性売買経験者の売春の起因となった逆境的体験を“属性を問わず”軽んじることだ。
特定の属性に重きを置くことと、興味のない属性を軽んじることは全然ちがう。

代表女性はよく「傍観者もイジメの加担者だ」とおっしゃっている。
そんな主張をする人が、被差別当事者の抗議を尻目に差別した側を目こぼしするという、傍観どころか実に積極的な“イジメ”をしている。
女性差別/反ルッキズムを掲げる女性のそういった振る舞いを見せられると、本当にしんどい気持ちになる。
その対象に“ブス”が含まれないことを実感するからだ。
正義を測る天秤が最初から傾いている人には、どんなイジメだって個人の裁量ひとつでイジメではなくなってしまう。
そういう人の発する「フェミニスト一人一派」論は、殴った女と殴られた女とを並列化して平気で“人それぞれ”に落としこんでしまう。
女性差別反対(※ただしブスは除く)」←これもフェミニストの流派のひとつと呼べるのだろうか?

“北欧モデル”は性売買を性搾取で人権侵害だとする理念で、売春者(性の売り手)を被害者として位置づける。
売春することを被害だと謳う人たちが、特定の売春の主因(となった属性)を貶めたり軽んじたりしていたらおかしいだろう。
人それぞれ売春のきっかけはちがっても、どれかが重くてどれかが軽いなんてことはない。
ぜんぶ「同じこと」のはずだ。

仮に、北欧モデル支持を表明しながら性被害者をバカにするような人物がいたとして、「それでも性売買の考え方には賛同できるから」と賛意を示せるのだろうか?
性被害が売春のきっかけだったという女性が多くいるなかで、大元の“性被害”を軽んじるなんてありえないことだ。
性被害者にアウトなことは“ブス”にだってアウトだ。
それがなぜ「ブスならセーフ」になってしまうのか?
私がブス差別(ルッキズム)を性被害に喩えるのは両者が同根の問題だからなのだが、「ブスの被害なんかと一緒にしないで」と思われてしまうのだろうか。

Aさんも代表女性も、性売買(の現場)で最も弱い立場に置かれた人に焦点を合わせるとおっしゃっていた。
そんな賢良方正な女性たちから、売春の動機となった属性を侮辱され抗議をしてもシカトされ、あげく侮辱も抗議も丸ごと「なかったこと」にされている“ブス”は、間違いなく性売買経験者のなかで最も弱い立場に置かれた当事者のうちのひとりでしょう…。

どれだけの人が気づいているか知らないけど、北欧モデル支持者のあいだで起こり得る女性差別は、ほぼ“ブス差別”しかない。
アラフォー女性が「まんこ舐めれんのか」レベルの発言ができる対象はブスしかいないし、それがなんのお咎めもなくうやむやにされてOKな対象もブスしかいない。
差別に抗議したことで女性たちからトンポリや和解を提言される対象もブスしかいない。
ブスほど同じ女性たちから差別されている属性はほかにない。

こうしてみると、“売春婦”より“ブス”のほうがはるかに差別されていることがよくわかるだろう。
この事例をもってしても、なおブス差別のほうがマシだという人がいるのなら、その人自身がブスの被害を認められないほど、強い蔑視感情を持っているだけにすぎない。

***

一人が100発殴れば「暴力」、だけど100人が一発ずつ殴れば「小さなこと」。
どちらも殴られる側にとっては同じ100回ぶんの痛みだが、しばしば暴力はそんなふうに扱われる。
ブス差別はいつだって後者のような状況だ。

だからといって、私はなにもAさんが大罪を犯したなどとは思っていない。
というか、今までにぶつけられた「言葉の暴力」の数々だって、一つひとつを紐解いてみればマリモみたいに小さなものだ。
だけど、想像してみてほしい。
「ブスのまんこ舐めれんのか」の発言者が何十人といる状況を。
そういう人が何十年と後を絶たない状況を。
そして、万人がそれを「小さなことだから」となかったことにし続けている状況を。
“ブス”の立場から、想像してみてほしいと思う。

いつだれの発言を切り出しても、小さなことだからと「なかったこと」にされてしまう。
だったら、ブスはいったいどのタイミングで被害を訴え出れば「なかったこと」にされずに済むのだろうか?

被害者の痛みを、当事者でもない人たちが勝手に「たいした傷じゃない」とジャッジする。
それが社会的にまかり通っているのがブス差別だ。
100人中100人がブス差別もブスの被害も「小さなこと」だと断じているなかで、それが当事者にとっては決して「小さなこと」ではないと、どう伝えればわかってもらえるのだろうか。
この件では、そんな釈迦の掌から抜けられない失望感を何度も味わわされている。【続く】

 

次回は、差別を「小さなこと/その程度のこと/どうでもいいこと」として扱われることで、ブスがどんなことになっていくか、というお話。

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いま、本件に関連したことで、ちょっとツイッターに書いています。
今後もあんまりツイッターをやるつもりはないので、たぶん今だけのことになるかとは思いますが、興味のある方は覗いてみてください。
というか、こっちの記事はだいぶ前に書いたものなのでタイムラグがあります^^;
時代の早さについていけない…。

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