忘れられた戦場で

とあるブスの身の上話

フェミニストによるブス差別 4

フェミニストによるブス差別 3 - 忘れられた戦場で

【↑の続き】

今回は、ブス差別への「小さなこと/その程度のこと/どうでもいいこと」という周囲の無関心が重なることでブスがどんなことになっていくか、というお話。

いつからか反性売買の話題を追っていると、たまに北原みのりさんの名前を見かけるようになった。
彼女はむかし性売買に肯定的な人物だったと記憶しているが、いつのまにか北欧モデル支持派に転じたようだ。
それ自体は大変結構なことだが、私にとっての北原さんはブス自認を盾にさんざんブス差別をばら撒いてきた人*1との印象が強く、かつて“ブス”を銛で突いて血まみれにしてきた彼女が、なんの釈明もなく当時のことを「なかったこと」にしながら反性売買を提唱する姿を見るにつけ、売春の動機が“ブス”だった私としては自分のなかで折り合いをつけるために理性をフル回転させなければならないのだ。

♦♦♦

少なくとも、いまの北原さんは“ブス”に関してほとんど言及しなくなったようだ。
飽きたのかなんなのか理由は知らないが、いずれにせよ私が記憶している彼女の言動はひと昔前のものだ。
人は変わっていくものだから、大昔のことなら水に流すべきなのかもしれない。
もしも、すべての過ちに贖罪が必要なら、すべての人の人生が贖罪するだけで終わってしまうにちがいない。
だれも聖人君子にはなれないから、許し許されながら生きるしか道はない。

それにいろんな背景を持つ人たちが“反性売買”というひとつの部分だけで交わっているに過ぎず、だれかのすべてを受け容れる必要はないしすべてを否定する権利もない。
いずれにしても、性売買の話題を追うかぎり今後も北原さんの名前を目にすることは確定的だから、私がどう思おうが関係なく選択肢はふたつしかない。
いくばくかの割り切れなさと共存しつつ呑み込むか、それが耐えられないなら私が退くかのどちらかだ。
他者を思い通りにはできないし、私もだれかに許されながら存在していることを忘れてはいけない。

そう思う一方で、年数が経っても人の根幹はそう変わらないという率直な思いもあり、あれだけ“ブス”について放言を重ねてきた彼女が釈明の要否を考えたことすらなさそうなことに、釈然としない気持ちを拭えないのも確かだ。

とにかく、“反性売買”を標榜する場に別件をぶっこむのはちがうし、いろんな人がいるなかの北原さんひとりだ。
そう、「たったのひとり」にすぎない。
やり過ごせば、それでいい。

♦♦♦

以上のように、北原さんがご自身の過去を顧みないことに整合性をつけるべく、私はこうして自分に言い聞かせる作業をしなければならないのだ。
慣れ親しんだ「しょうがない」の合言葉とともに、モヤモヤを魔封波で封じ込めておくことで自分の視界に入らないようにする。
考えないように感じないように思い出さないように、感情を押し殺しながら。
実に手慣れたものだ。

そして、少なくともそのモヤモヤをこんなふうに表に出すつもりなどさらさらなかった。
意に沿わない人物がたったのひとりいたからといって、それをいちいち表明するはずもない。
私のことを気に食わない人もいるだろうが、その人たちがわざわざ宣言しないのと同じ。

だけど、そこへAさんという新進気鋭のインフルエンサーが“お仲間”に加わる。
ブスを貶めそれを当事者から抗議されても、意に介さなかったその人だ。
これでブスを「どうでもいい」扱いする人が、北原さんとAさんの二人に増えた。

さらに、そんなAさんを反性売買団体の代表を務める女性が歓待する。
目の前にいるブスをシュバババと派手な足音を立てて素通りしながら。
これでブスを「どうでもいい」扱いする人が、北原さんとAさんと代表女性の三人に増えた。

さらにさらに、トンポリ女性や和解の提言者が、正義や親切心に擬態した“差別”の槌を振り下ろす。
これでブスを「どうでもいい」扱いする人が、一気に五人にまで跳ねあがった。

こうして、“ブス”を「どうでもいい」扱いする人たちの輪が広がっていく。
気づけば「たったのひとり」は「たったのひとり」ではなくなっている。
同じ指向を持つ人間が集団化することで、物事の方向性はおのずと決定づけられる。
元来ブス差別への感度が低い人たちだ。
そういう人が数人も寄り集まれば、「これぐらい(の差別)は大したことないよね」と“ブス”の痛みを低く見積もり、互いにそれを是認し合うことで、誰とはなしに差別を是とする暗黙のルールが敷かれる。
それを彼女たちに同調する“サイレント・マジョリティ”が、自覚の有無を問わず強固に後押しする。
前回の冒頭で書いたように、それらは場を取り巻く空気感となって伝播していく。

物の見事にブス差別を「なかったこと」にされてしまった。
しかも、よりによって性売買という女性差別とは切っても切れない人権問題に対峙する女性たちのあいだで。
男の憎悪にまみれた攻撃的なブス差別とちがって、女性のブス差別の多くは見ないふり/知らないふりという消極的な差別だ。
そして、多くの女性はそれが差別だと気づいていない。
特段の悪意もない“普通の女性”たちによる「小さな差別」の集合体。
多数派がマイノリティの声を掻き消したという結果すら見えていないだろう。
たぶん、差別した側がインフルエンサーじゃなかったとしても、うやむやになっていたのではないかと思う。
差別された側が“ブス”だっただけで、第三者が「しょうがない」を発動してしまうからだ。
(もしかしたら、私個人が嫌われているだけかもしれないけど…。)
いずれにせよ、是々非々の判断とはいかないようだ。

いよいよ、“ブス”にとってはつらい状況と化していく。
もはや私の居場所はそこにはないと感じる。

結局のところ、マイノリティのなかのマイノリティは、こうして排斥される運命にある。

♦♦♦

私は以前、Aさんの名前を明かした理由のひとつとして、抗議する当事者(ブス)が現れたときに、北欧モデル支持派の第三者がどんな反応を示すか知りたかったからと書いた。
答えは「なにも変わらない」だ。
当事者が抗議をしてもしなくても、Aさん同様に無反応という結果に終わった。

つまり、今後もまた同じことがくり返されることを意味している。
今までがそうだったように、これから先もずっと。

きっと、またブスを蔑む性売買経験者が現れるだろう。
だけど、大多数の人がブス差別に慣れすぎて何も感じなくなっているため、当たり前のようにそれを通り過ぎるのだろう。
そこで、また私のように耐えられなくなったブスが抗議をするのかもしれない。
だけど、大多数の人がブス差別に慣れすぎて何も感じなくなっているため、やっぱり当たり前のように通り過ぎるのだろう。
誰かがブスを侮辱したこともブスが誰かに抗議をしたことも雲散霧消してしまう。
そして、それを是とする空気感が、あらたな“Aさん”を生むのだろう。
その次も、そのまた次も…。

こうして、未来永劫ブス差別のスパイラルが続いていく。
差別は起こるべくして起こっていることがよくわかるだろう。

ブス差別へのハードルを上げようとして持ち上げてみたら、思いのほか重たくて落っことしてしまい、以前よりさらにハードルが下がってしまった。
そんな状況だ。
要するに私は失敗したのだ。

なにを大げさな…と思うだろうか?
“前例”は人の無意識下で「お墨付き」として強力に作用する。
「以前こうだったから今回も…」と無意識的に前例に倣おうとするのが人の常だ。
ブス差別はなかったことにしてもかまわない、そんな前例ができてしまった。

♦♦♦

今後も私が北欧モデル支持者であることに変わりはないし、性売買という人権侵害を労働として認めろなどという“セックスワーク論”に与することもない。

ただ、いまは性売買の話題に触れると、その当事者に自分(ブス)は含まれないんだなという一抹の寂寥感を覚えるようになった。

私「“ブス”が動機の売春経験者もいるんです。ブスを差別しないでください。」
?「…でっていう(なつい^^;」

こんな感じですかね。

ただし、すべての人がそうというわけでなく、少数ながら私がAさんの名を明かしたツイートにいいね!をくれたり庇ってくださった方もいて、味方がいないのが人生のデフォだった私としては感謝してもしきれない思いだ。
過去に庇ってくれた女友だちのことを思い出し、“ブス”が女の端くれとしてなんとか女性差別問題の土俵際でまだ踏ん張れていると思える。
それでも、多くの女性から同じ女でなく「ブスという別の生き物」と見なされていることも実感している。

人権的見地から反性売買を提唱するひとたちのあいだで、特定の性売買経験者の動機(属性)が差別されたり、そのことが些事として閑却されるのは普通におかしいと思うし、そんなふうに当事者の声が無きものにされるのなら、もはや為す術はないので私のほうが離脱するしかない。
だから、今後はあまり性売買の話題を追わないことに決めた。
たぶん、追わなくなるとそのまま関心も薄れていくものと思う。
というか、ツイッターではすでに「性売買」「セックスワーク」などのワードをミュートしているし、Aさんを始め反性売買派のめぼしいアカウントもブロックORミュートしている。
しんどいから見たくないだけか、関心が薄れているからかは自分でもよくわからないが、気持ちが離れつつあるのは確かだ。
(TLで性売買の話題が流れてくると反応してしまうけど…。)

そう考えると、第三者を差別の加担者だなんだと書いたが、私も結局その人たちと同様に自分の属性でないかぎり「どうでもいい」のだろう。

つまり、「しょうがない」に帰結する。

♦♦♦

戦争や災害などの大きな災厄のなかで、女性の性被害はいつも二の次扱いをされてきた。
「亡くなった人もいるのだから命があるだけマシだと思え」
「みんなが大変なときにそんなことを言っている場合か」
そうやって女性の痛みは取るに足らないものとされ、女性自身も罪悪感を植え付けられ被害を言い出せなくなってしまう。

北欧モデル支持者の一部の人は、そんな男社会と同じ事大主義に陥っているような気がしてならない。

反性売買という崇高な目的のためなら、内側で発生したブス差別など捨て置いてもかまわない、それを是としながら足並みをそろえることを「シスターフッド」と呼ぶのなら、私はその輪から外れてもかまわない。

むしろ、クソくらえだ。

日本の性売買の歴史から“ブス”が抹消されても、反性売買運動は問題なく回っていく。
ブス差別(ルッキズム)は女性差別の一種であるから、それを抹消することは女性差別の歴史をひとつ消去することと同義だ。
だけど、大多数が関心のない属性は最初から「いなかった人」として歴史の闇に葬られる。
そんな空白の歴史もまた歴史の1ページなのだろう…………か?

これが、世の中で差別として認識されていない差別に抗うということだ。
100人中99人が“ブス”を軽んじているなら、差別を訴える相手は必然的に差別をしているその人たちになってしまう。
それがどれほどの難業か、せめてこれを読んでくださっている方にだけでも、ご想像いただけることを願ってやまない。【続く】

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次回、総括というか雑感のようなものでまとめて、いいかげんこの記事を終わらせようと思います^^;
(自分でもだんだん何が言いたいのか、よくわからなくなってきているゆえ…)

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*まとめ*

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*1:検索しても過去の記事が見つからないので、つたない記憶に頼って書いてみる。最も鮮明に覚えているのが、吉本ばななさんの容姿を中傷し、それに抗議した女性を面白おかしく書き立てたこと。ほかにもセックスワーク論と似たような“エンパワー”をしたり、真のブス鑑定士のような真似をしたりと、彼女の言動を見るたびに心をバキバキに折られたものだ。