忘れられた戦場で

とあるブスの身の上話

【前編】フェミニストによるブス差別 5

フェミニストによるブス差別 4 - 忘れられた戦場で

【↑の続き】

差別問題では、しばしば忍従していた被差別者が声を上げた際に“悪役”を負わされる。
それまで黙っていることをデフォとされてきたため、まるで輪を乱す「ならず者」のような奇異の目で見られてしまう。

これは、さんざん男が女に対して行ってきたことだ。
女性差別に抗議すると女のヒステリーと揶揄され、ほかのわきまえた女性たちとはちがう“特殊な女”というレッテルを貼られる。
声を上げられるようになるまでに女性がどれほどの忍従を強いられてきたか、声を上げられない女性がどれほどの忍従を強いられているか、その背景に思い至ることがないから、声を上げた女性を突然変異の珍種と見なしてしまう。

そんなふうに、男が女にしてきたことを、女もまた“ブス”にしている。
男の世界の下に女の世界があるように、ほかの女性たちの下に“ブス”が在る。

♦♦♦

先述した女性たちにとって、私の抗議は“にわか雨”みたいなものなのだろう。
運悪く突然降られてしまった。
軒下で雨宿りしていれば、そのうち勝手に通り過ぎる。
そんなイレギュラーなイベントだ。

彼女たちがそれをイレギュラーだと感じるのは、今までの人生で差別に抗議する“ブス”を見たことがないから。
“ブス”の声が存在しない世界のほうが「当たり前」だから。
だから、私をブスのなかの特殊な人と見なし、特殊な人物による極めて私的なお気持ち表明だと思っている。

だけど、被差別者は声を上げられるようになるまでに長い年月を要する。
それは一切の自己主張を封じられ理不尽を受容しながらあきらめてきた年月だ。
私にとって今回の件は47歳にして人生初のブス差別への抗議だった。
この二十年間、何十回と同じような侮蔑を諦観の境地から眺めてきた果ての抗議だった。
他者からすると、ある日突然降り出した“にわか雨”のように見えたとしても、当事者の中では誰にも言えなかった長い長い年月の積み重ねがあるのだ。
一人や二人の発言なら、いちいち抗議なんかしていない。

差別が常態化していると常態化していることに疑問を抱くのが難しくなる。
ブスへの差別が差別でないとされている社会的環境で育つから、大多数の人はそれを問題視することができない。
ふだん呼吸を意識することがないのと同じで、ブス差別に引っかかりを覚えることができないから空気のように通り過ぎてしまう。
そのため、差別に抗議したブスのほうがいきなり誰かに噛みついた加害者のように見えてしまう。
これが差別問題でよくみられる、被害者/加害者の関係性がひっくり返ってしまう現象のカラクリで、端からバイアスがかかっているからこそ起きてしまう逆転現象だ(と思う)。

♦♦♦

今回の一連の流れを知る“ブス”当事者がいたとして、今後「女のブス差別」に抗議しようと思えるだろうか?
ますますハードルは高くなってしまった。
現にその後、北欧モデル支持者によくRTされる性売買経験者の方が、“ブス”について微妙なツイートをしているのを見かけたが、その真意を確かめる勇気は私には残っていなかった。
たぶん前後の文脈から察するに言葉のチョイスを間違えただけだと思うが、それだけのことを確認することさえままならない。
ブスの戯言として、またシカトされるかもしれない。
三者から心をへし折るようなメールが届いたり、白い目で見られたりするかもしれない。
それらを想像しただけで徒労感が先に来て、何も言えなくなってしまった。

抗議する側というのは不利で、黙っていれば何も起こらない場面で波風を立てることになるから、往々にしてワガママ・自分本位・幼稚・感情的などのネガティブな評価を招いてしまう。
時間が経ったことは時間が経った以外の事実は何もないのに、時間が経つと「たったの一言」に抗議し続けることが難しくなってしまう。
いつまでも些細なことに粘着している狭量な人だと思われてしまうからだ。
そして、そう思われることがわかっているからこそ、通常“ブス”は差別に抗議することができない。
私が47年間、一度もブス差別に抗議したことがなかったように。
“ブス”への攻撃はいつだって、どっかのだれかの「たったの一言」にすぎないからだ。

治外法権化する「女のブス差別」

「女のブス差別」は女性たちのあいだで治外法権化していると感じる。
本来、ルッキズム女性差別の一種であるから、「ブスを差別する女」を不問に付すことは女性差別を容認しているも同然だ。
そう考えれば何も難しいことはないはずなのに、女どうしというだけで入り組んだ迷路のように複雑化してしまうことがある。

以前書いたように、男がブスを差別したとき、女性はブスの味方になってくれることが多い。
ところが、ブスを差別したのが「女」だったとき、女性の一人称視点は差別した女のほうに合わさってしまう。
「傷つけた女」の罪悪感や責められたり立場を失うかもしれないしんどさのほうにシンクロして、「傷つけられた女」の痛みを置き去りにしてしまう。
そのとき見落とされているのは、同じ女性から差別され、味方にもなってもらえない「傷つけられた女」の苦しみだ。
いま一度言うけれど、差別問題ではこんなふうに強者/弱者の関係があべこべになってしまう現象がよくあるように思う。
それがなぜ起きるのかというと、女性もまた“ブス”への差別意識を内包している人が多いからだ。
だから、ほかの女性に対して“ブス”を無意識のうちに「わきまえるほう」に割り当ててしまう。
判官びいき」の正体は案外そんな差別意識にすぎないのではないかと私は思う。

フェミニストは「女どうしの分断」に敏感だ。
分断をおそれシスターフッドにこだわるあまり、より弱い属性の女性を踏みにじっていることに気づかない。
“ブス”がほかの女性に譲歩し忍従することで保たれるシスターフッドとは何だろうか?
表面上はそれで丸く収まるだろうが、女性に譲歩と忍耐と沈黙を強いてきた男尊女卑社会と何がちがうのだろう。
ブスの犠牲の上に成り立つ女同士の連帯ならば、その時点で連帯など破綻しているし端から分断は起きている。
当たり前だけど、“ブス”も女性だからだ。

♦♦♦

女性差別の根源が男社会にあるのは間違いない。
名誉男性や「女を差別する女」も男社会の問題だ。
そのことに開眼した女性は、女性を批判することに及び腰になる。
同性への悪感情が生じると、その真因が自己内在化したミソジニーにあるのではないかと警戒するようになり、つねに自身の内面に目を光らせる“ミソジニーの番犬”を飼うはめになるからだ。
皮肉なことに、その番犬はほかの女性へのミソジニーとなって牙を剥くことがある。

女性差別は男社会が元凶だから」
「女どうしの分断を懸念しているから」
「“女の敵は女”というエサを男に与えたくないから」

それら自身を戒めていた言葉で、ほかの女性を戒めるようになる。
ミイラ捕りがミイラに…状態に成り下がってしまう。
その根っこは名誉男性とまったく一緒だ。

そして、「女を差別する女」への批判に否定的/消極的になることで、結果として「女から差別された女」をなおざりにするという“女性差別”に加担してしまう。
女性差別は男社会のせいだから、“女の女性差別”は大目に見ましょう」とやられたら、差別された側の女性はどうしたらいいのだろう。
女性であることが“ブス”に対しての特権になってしまっている。
だから、「女性のブス差別」は治外法権化していると言っている。

上から下への一方向

ブス差別(ルッキズム)は、ほかのどの女性差別ともちがう。
女性差別が“男性差別”の対とはなり得ないように、ルッキズムもほかの女性差別と似て非なるものだ。
どんな女性差別にも必ずルッキズムが組み込まれているし、それは女性差別という巨悪を支える頑強な基礎といっていい。
どの立場のどんな女性であっても、その絶対的な序列から逃れることはできない。
そのことを念頭に置いてほしい。

「女のブス差別」は視座を高くして「男→女」ではなく、より上位の「強者→弱者」という抑圧構造の観点から捉え直すべきだと私は思う。
すなわち、「女→ブス」という構図だ(※この場合、「女」にはブスも含まれる)。
「男→女」という構図に囚われていると、先述したように「女のブス差別」が発生した際にバグってしまう人が出てくる。
残念なことにフェミニズムに造詣の深い人ほど、その傾向が強いような気がしてならない。
「強者→弱者」という“基本”のなかには、「大人→子ども」「健常者→障害者」等と同じく「男→女」も包括される。
そして、「女→ブス」も同様。
上位者が下位者を虐げているという見方をすれば、「女のブス差別」もけっして女同士の対等な小競り合いでないとわかるはずだ。

また、力関係は水の流れと一緒で「上から下への一方向」へしか作用しないようにできている(※参考記事)。
さらに、それは一足飛びに発生し得るという特徴がある。
例えば、イジメの加害者が男であっても、被害者は女を蔑み憎むようになる。
「男にはやられても、(下位の)女にまでナメられてたまるか」という心理が働くからだ。
「女なんかに~」は女性であれば、自分自身への蔑みとしても作用する。
社会的に女が男より劣った存在として位置づけられているためにそうなる。

人は自分を加害した相手(属性)だけをピンポイントで憎むようになるとは限らず、むしろ被害や抑圧の経験がより弱い相手(属性)への加害性となって発動することがある。
これが「上から下への一方向」が一足飛びに発生するということ。
(雑な言い方をしてしまえば、劣等感が強い人ほどいろんな弱者属性への加害性や差別意識も強くなるということ。)

上記と同じ原理で、なんらかの逆境的な体験をした女性は、そうでない女性と比べて相対的に醜形恐怖症に罹患する率が高まるのではないかと私は思う。
「上から下への一方向」に順えば、ルッキズムの被害経験の有無にかかわらず、最下層にいる“ブス”を蔑むようになるからだ。
醜いことを下位に置くなら、美しいことを上位に置くようにもなる。
「美人=上/ブス=下」という価値観を内面化することで、女性は自身の外見への劣等感(優越感)*1を増幅させていく。
これが外見上の美醜とは直結しない逆境的体験をした女性であっても、醜形恐怖に罹患しやすいと私が考える理由だ。
社会的に“ブス”が女の最底辺として位置づけられているためにそうなる。

追記しておくと、女性差別の最深部はルッキズムだと私が思う理由は、実質“ブス”が女の最下層民として扱われているから。
最も差別された女性の属性が“ブス”だとすれば、それ(ルッキズム)を女性差別の中核と見なすのは自然なことだと思う。

以上はあくまで持論であって、真偽を検証する手立てがないので、自分が正しいと主張するつもりはない。
長年、否でも「顔」と向き合わざるを得なかった私が、個人的な経験から導き出した単なる推測に過ぎない。
ただし、「上から下への一方向」の概念自体は間違っていないと信じている。
それを踏まえたうえで、もしも逆境的体験をした女性の醜形恐怖への罹患率が相対的に高いことを証明できたなら、そのことをもって女性差別の最深部がルッキズムであることの証左になるだろうと思う。【後編へ続く】

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今回で終わりと書きましたが、またもや長文になってしまったので分割します^^;
はてなブログの仕様?で同日に複数記事を投稿すると最新記事以外が通知に反映されないみたいなので、後編は24時間以上経ってからUPします。
引き続きお読みいただけるとありがたいです。
次で正真正銘終わりです。

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*まとめ*

busu.hatenablog.jp

*1:優越感の正体は劣等感なので両者を区別する必要はない。