忘れられた戦場で

とあるブスの身の上話

売春するまでのお話

私は高校を卒業した年から二年間テレクラで売春をしていた。
1994~95年のことで、もう三十年も前の話だ。

家は貧乏だったが私自身がお金に困っていたわけではなかった。母とは折り合いが悪かったが虐待まではいかなかった。そもそも赤の他人にまで醜い顔を罵倒されてきた私に家出という選択肢はなく、母からどれだけ冷たくされようと道すがら罵られるよりは家にいるほうがマシだった。だから、生きるための寝床や食糧がないといった切迫した事情があったわけじゃない。

そんな状況でなぜ売春をしようなんて思ったのか。一言でいえば自傷行為だったんだろう。私の売春は私という人間にいかに「価値がないか」を、自身の心身に叩きこんで学習させるための作業だったといえる。もちろん、当時はそれが自傷行為の一種だなんて考えたこともなかった。

人から見るとなんのためにそんなことをするんだろうと不思議がられてしまうような被虐的行為も、当人にとっては前向きなつもりだったり必要なことだと思いこんでいたりするものだ。

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私はこのブログで再三、売春の動機が“顔”だったと書いてきた。だけど、その経緯を明かしたことがなかったので、読んでくださっている方にあらぬ誤解を与えてしまいかねないことをずっと懸念していた。

そこで先に売春部分だけを別建てとして書こうと思い立ち、せっせと下書きを書き溜めていたのがおよそ半年前のことだ。二ヵ月ぐらいかかりきりだったのだけれど、書き進めるにつれ徐々に軌道から外れているような違和感を覚えるようになり、結局、別建て案は廃棄することにした。

その違和感の正体とは、わざわざ“売春”を別建てにすることで“ブス”と同列に扱いたくはないという気持ちだった。

ブスにはブスという単独の属性のままで被る実害がたくさんある。言葉の暴力を始め、顔が醜いだけでぞんざいに扱われたり偏見の目で見られたり…。とりわけ、それらの扱いが被害として認識されていないのは、ブスの被害の最たるものじゃないかと思う。

そういうブス固有の被害経験がいくつもあるのに、別の被害/被差別属性をくっつけないとブスは被害者として認定されにくいと感じていて、例えば「ブスだけど売春していた」と言えば少なくとも北欧モデル支持者は売春行為を被害として受けとめてくれるだろうが、「ブスと言われた」ことをもって性売買や性被害と同等の被害だと思ってくれる人が果たしてどれぐらいいるのだろうか。

私はその理不尽さを問うているはずなのに、みずから“元売春者”を前面に押し出すことで“ブス”のほうを隅っこに追いやろうとしていることに違和感が拭えなかったのだ。

迷いがあるときにむりやり書いても「なんかちがう」と後悔することが多いので、しばらくブログから離れることにしたというのが長らく更新をしなかった理由だ。

そのあいだ、ずっと性売買の話題からも遠ざかっていて、事件報道以外の記事は読まなくなったし、ツイッターもブラウザの拡張機能ドメインごとブロックしてから久しいのだけれど、それでも半年経ってなお性売買のことが頭から離れずにいるのは何故かと自問したとき、たぶん私は売春経験者としてではなく“顔が醜い女性”として自分の売春した経緯を誰かに知ってもらいたい気持ちが強いのだと思った。

ルッキズムは性売買の副産物ではない

現状、性売買の問題にルッキズムがからむと性売買の結果やおまけとして扱われがちだ。ルッキズム自体が売春の主因となり得ることを、とても甘く見られていると感じる。せいぜい、「美容整形の費用を稼ぐために売春する」ていどの認識しか持たれていないのではないか。

それは言葉の暴力の加害性が正しく認識されず、その被害が軽視されていることの顕れでもあると思う。

正直にいうと、いまの私に性売買経験者としての当事者意識はあんまり残っていない。もともとは反性売買派の人たちに当事者枠から排斥された(と感じた)ことがきっかけだったけれど、結局のところ、私にとって売春したことは“顔”の被害の副次的な問題にすぎなかったのだろう。

そもそもの売春のきっかけが“顔”だったし、いつだって一番深刻な問題は“顔”だった。

だからこそ、ブスを貶める女性/貶められるブスとが性売買経験者に混在するなか、両者を並列化して「ルッキズムは性売買の弊害」の一言で片づけてしまうような世界線にはいられないのだが、思い返せば女のなかの“ブス”の立ち位置って子どもの頃からこんなだったなと再認識させられる部分もあって、そういうシスターフッドからこぼれ落ちた「同じ人」に想いを馳せているほうが私の性に合っているのだと思う。というか、それが自分の在るべき姿なんだろう。

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私の経験はレアだ。

この世の中に不特定多数の人物から罵倒や嘲笑を浴びせられるような日常を送ってきた人間がどれだけいるというのだろう。だけど、経験自体はレアであっても、私が売春するまでにたどった心理過程はけっしてレアなものではなかったと思っている。

「言葉の暴力」が売春に至るぐらいの被害経験になり得ることや、ほかの属性の被害者と変わらないことを知ってほしい。

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そんなわけで、次回からちょっとずつだけど、売春について書いていこうと思います。

先の経験から同じテーマにかかりきりだと存外にしんどいことがわかったのでぼちぼちと…という感じで。

先述のとおり別建てにはしないけれど、長丁場になると思われるので(私の文章が冗長なせい…)あとから抜粋して読めるよう独立記事として成立させたいので、過去記事や今後書く内容と多々かぶっている箇所があるかもしれないことをご了承ください。

当ブログサイドバー(※モバイル端末は下部)にある赤文字の『絶対悪』カテゴリにて、十字架アイコンとは別のフォントアイコンを使ってまとめる所存なので、つづきを見失った際にはそちらから探してみてください。もしくは『性売買-売春するまでのお話』カテゴリをクリックしてみてください。

内容的には、どういう心理過程を経て売春するようになったのかという、私自身の「アタマのなか」のお話となります。

あくまで個人の経験談であってすべての顔が醜い女性に当てはまるものではないことを予めご承知おきください。

売春の動機

私にとって売春の動機は最も誤解されたくないことのひとつだ。

だから、早めに書きたい気持ちはあるのだけれど(半年経ってるけど^^;)、ちゃんと順序立てて書かないとワケわからんことになるというジレンマがあるので、今回は確認というか留意していただきたいことを書いて終わります。

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「ブスが原因で売春した」というと、どんな経緯を想像するだろうか。男性から女扱いされてこなかったブスが、女としての価値を認められたくて売春したんだ、と思われるだろうか。もしそう思ったのだとしたら大きな誤りだ。

あなたが女性だとして女としての価値を認められたいから売春しようなんて思うだろうか。あなたが売春経験者だとして女としての価値を認められたくて売春をしたのだろうか。きっと、そんな女性はいないはずだ。

自分がそうでないものを「ブスにはそういう人もいるかも」とは思わないでほしい。

多様性や自己決定権の尊重という美辞麗句で思考停止する前に、まずは「自分だったらどうか」を問いかけてみてほしい。

たいていの場合、自分がやりたくないことは、ほかの女性にとってもやりたくないことだ。あなたにとってイヤなことは、ブスにとってもイヤなことだ。“ブス”の幸福の基準がほかの女性より低く設定されているなんてことはないし、舌が肥えてなくても、おいしいものを知らなくても、まずいものはまずいのだ。

あなたが想像する「ブスはこんなこと望んでそう」はまやかしだと思ってほしい。

そして、ブスの虚像で当事者の気持ちを推し量ろうとする人たちの存在に、当事者はとても苦しめられながら生きている。

そのことを念頭に置いてほしいし、けっして忘れないでほしい。